上原亜季さん

ムティアラ・アーツ・プロダクション代表
(AFS43期生 1996年~1997年)
日本の大学を卒業後、Universiti Sains Malaysiaの大学院にてマレーシアの伝統芸能の研究を行う。修士号取得。(公財)国際文化会館勤務を経て、2011年より現職。2014年にフリーペーパー『マレーシア文化通信・WAU』を創刊。
>Mutiara Arts Production ホームページ

—まず、現在の活動について教えてください。

2011年に「ムティアラ・アーツ・プロダクション」という個人事務所を立ち上げました。
ここで、マレーシアの文化を紹介するための執筆活動や講演、マレー語の通訳・翻訳、マレーシアの伝統芸能家を招聘するイベントの企画・制作、日本からアジアにアーティストを派遣するコーディネートなど、幅広く活動を行っています。

—高校で留学したきっかけ、マレーシアを選んだ理由を教えてください。

きっかけは母の勧めです。もともとは、母自身が高校時代に留学したいと思っていたけれど残念ながら夢が叶わず、娘にはぜひ行ってほしいとずっと思っていたようです。それで「人生が180度変わるから!」と、強く背中を押されました。
応募のとき、第1希望にはインテリアやデザインに魅力を感じていたデンマークを書きました。2番目に英語圏のカナダ、そしてアジアの国も入れておこうかな、という軽い気持ちで3番目に書いたのがマレーシアでした。そんな決め方だったので、結果通知を受け取ったときには、マレーシアってどこにあるんだっけ?という、場所すらよくわかっていない状態でした(笑)
留学が決まってから、マレーシアに駐在経験のある方にお話を伺ったり、図書館で本を借りて読んだりしましたが、まだインターネットも一般には普及していない時代でしたから、事前に入手できる情報は限られていましたね。

—マレーシアに着いてみて、驚いたことは何でしたか?

実はホストファミリーの家に着いてすぐにラマダン(断食月)が始まったんです。言葉がわからない中、朝4時半ごろに叩き起こされて、ご飯を2杯分ぐらいしっかり食べさせられて、夜7時ぐらいまで何も食べない、誰もご飯を作ってくれないという生活がいきなり始まったんですね。出発前のオリエンテーションでも「現地に着いたら郷に従え」と言われていましたし、これも異文化体験だと自分に言い聞かせましたが、昼の1時ぐらいになるととってもお腹が空くので、ときどき日本から持っていったお菓子をこっそり食べて凌いでいました。この件は実はホストマザーにばれていたことが、帰国して10年ぐらい経ってから発覚します(笑)ゴミがあったから知ってたよ、と。
日本に帰ってきてからも、毎年のようにホストファミリーのもとを訪ねて、お姉さんたちの結婚式にでたり、日本の大学に入った弟を私の実家に招いたりと交流が続いています。だからこそ、後々になって話せることもありますね。

>現地に到着して、驚いたこと(動画)

—良い関係が続いているんですね。当時は辛いこともありましたか。

私はマレーシア東部クアンタンのFELDAという、パームオイルのプランテーションの村に住んでいたのですが、ホストファザーは村長のような、村の偉い人でした。ホストマザーは子どもに村で一番でいることを求めるような教育熱心な人で、みんなの前で私のことを話すときも、少し厳しいことを言っていると感じることがありました。今だったらなんてことないのですが、当時は、どう身を置いたらいいのか、どうやったら期待に応えられるのかと悩んで、LP(留学生担当のボランティア)の家に毎週のように通っていた時期もありましたね。

—帰国後もマレーシアとの関わりは深かったですか。

帰国してからは普通に大学を受験して日本の大学に入り、社会学を専攻しました。学校で広報の編集委員になったり、ユネスコアジア文化センターでバイトをしながら色んな国の情報に触れたりはしていましたが、マレーシアに特化して何かをしていたというわけではありませんでした。

—マレーシアの大学院に進まれたのはなぜですか。

現地の生活にどっぷり浸かって生活していると、急に言葉がわかるようになって世界が開けてくる時期がありますよね。何度も聞いているうちに「あ、これはあの言葉だ!」と繋がって、言葉が辞書のように、少しずつ自分の中に蓄積されていくというか。そういう風に体で吸収して理解している言葉は、日常会話には困りませんが、例えば新聞を読むとなるとまた別の話です。それで、せっかくここまで学んだのだから、マレー語を仕事で使えるようにしようと、大学卒業後、再びマレーシアに行くことを決めました。

最初は語学研修として3ヵ月程度の滞在を予定していたのですが、伝統芸能のコースに編入できることがわかって、結局5年半滞在することになりました。
日本の両親が芸術関係の仕事をしていたこともあり、もともとアートや芸術への関心は強かったのですが、高校時代は生活に慣れることに精いっぱいで、そういう専門的な分野まで目が向いていませんでした。それが大人になって少し余裕ができたところに、ちょうど学べる機会があって、興味が呼び起されたという感じです。

—そのときどきの興味や縁を大事にされているという印象です。

そうですね、割と直感で動くタイプだと思います。でも、流れには乗りつつも、自分の中で軸になっているもの―マレーシアとの関係を大事にしようとか、言葉はきちんとやろうということ―はぶれないので、あまり不安になることはありません。
それはAFSの1年間で、自分にとって何が大事なのか考えたり、道を切り開くことを覚えたりといった経験を積んだことも影響していると思います。やはりあの1年はとても大きな1年でしたね。

>AFSの1年で培ったこと(動画)

—マレーシアと長く関わる中で、変わってきたと感じるところはありますか。

首都のクアラルンプールは、もう日本とほとんど変わらないです。もともと多民族の国なのでコミュニケーションのツールとして英語は広く使われていましたが、特にクアラルンプールの若い人たちには英語をまぜて話すのがかっこいいという意識があるように思います。海外と関わる仕事が増えてきているので、英語を話せないと仕事にならないという環境的な要因もあるでしょうし、インターネットの影響もすごく大きいと思います。
伝統芸能についても、残していくための活動をしなければいけないという状況は日本と同じです。経済的に発展してくると、生活から切り離されて、若い人はテレビや映画に移行していってしまいますから。

—そんな中で、今後どのような活動をしたいと考えていらっしゃいますか。

10年ぐらい前までは、マレーシアってどこ?と聞かれることも多かったですが、ここ数年は日本でも知名度が上がってきていると感じます。今年、マレーシアにゆかりのある3人の女性プロデューサーで、マレーシア文化通信〈WAU〉というフリーペーパーを創刊したのは、マレーシアに興味はあるけれど、あまり知らないという一般の人たちにも、マレーシアを知ってもらうきっかけになればいいなと思ったからです。
そして、マレーシアからアーティストを呼ぶことと、日本からマレーシアやインドネシアにアーティストを送るという双方向の活動を通して、東南アジアの中で、クリエイティブな仕事を生み出していけたらと思っています。

—日本の高校生にメッセージをお願いします。

高校生は3年間と限られた時間しかありませんが、長い人生から考えたら、1年間というのはそんなに長い時間ではありません。その時間で世界を見てくるということは、ものすごく自分を育てる時間になりますし、必ず取り返すことができる1年なので、ぜひ思い切って外にでてほしいと思います。

>高校生へのメッセージ(動画)

ありがとうございました。

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