AFS友の会ZOOMネットワーキングの集い
田中稔子さん「被爆体験と壁画アートで伝える平和への祈り」
七宝壁画アーティストとして長年活躍される田中稔子さんは70歳頃から被爆体験者として世界各地で証言を始められ、命の尊さと平和の大切さを訴える活動を今なお続けられています。
「参加者のみなさんとの対話に時間を多く割きたい」と、質疑応答はⅠ時間以上に亘り、熱のこもったものとなりました。
今回はスピーチの概要に次いで、参加者のお一人で原爆投下時、ご家族ともに広島にいたという吉川清さんからいただいた所感を、そして最後に質疑応答の録画をご紹介したいと思います。

スピーチ概要
現在86歳の田中稔子さんは長年「壁面七宝」というアートに取り組んできました。1945年8月6日、6歳のときに広島で被爆。爆心地近くに住んでいたものの、わずかに離れた場所に引っ越していたことで命をつなぎましたが、強烈な光と熱風で火傷を負い、放射線の影響も受けました。その日、登校途中に原爆が投下され、空にまばゆい光が走った瞬間の記憶や、砂ぼこりで真っ暗になった世界は、今も鮮明に覚えているそうです。
家に戻ると家屋は崩壊していました。田中さんの姿は変わり果て、無事だった母にでさえ一瞬誰だかわからなかったといいます。その後、高熱で意識を失い、治療も受けられないまま生死の境をさまよいました。放射線の影響は長く続き、戦後もその被害は十分に知られず、多くの知人や親族が病気で若くして亡くなりました。

長い間、被爆体験を語ることはできませんでした。あまりにもつらく、話す勇気が出なかったからです。70歳を迎える頃から、自分の体験を伝えることが使命と感じ始め、2008年に南米で初めて証言。その後、アメリカやウクライナ、ニュージーランドなどでも証言活動を続け、若者たちと交流してきました。

特に印象に残っているのは、ニューヨークでの活動で、原爆を投下した国の若者たちが、話を聞いて感じたことを絵や演劇で表現し、真剣に平和について考えてくれたことです。また、かつて敵国だったアメリカの指導者や兵士の孫たちと友情を築き、ともに平和を願うようになったことは、大きな希望となったといいます。
田中さんは、アートの力が人の心を癒し、想像力を広げることで平和教育にもつながると信じています。自作の壁面七宝には、直接的な描写は避けながらも、核兵器の恐ろしさや平和への願いを込めてきました。抽象的な表現だからこそ、見る人の想像力を刺激し、それぞれの経験を通して深く受け止めてもらえると考えるようになったそうです。

世界が分断と不信に揺れるいま、地球の未来を守るには、国籍や人種を超えて他者の痛みに想像力を持ち、平和のために努力し続けることが必要です。私たちは皆、同じ船「地球号」に乗る仲間なのだという意識を持ち、互いを思いやる心を育てることが、核兵器のない世界につながると、田中さんは語ります。
そして最後に、「たくさんの国に親しい友人をつくってほしい」と呼びかけます。もし大切な友人のいる国と争うような事態になったとき、爆弾を落とす前に立ち止まり、対話の道を探すはず。そうした人と人とのつながりこそが、平和をつくる第一歩になると、被爆者としての願いを込めて語りかけています。

参加者・吉川清氏からの所感
謎解きの難しそうな演題でしたが、お話を伺ううちに、私なりに田中さまの深い願いに近付けたような気がしております。Keyword は「青空」。通学途上の被爆で頭部・右腕・左首に火傷を負いながら戻った自宅の「破壊された我が家の屋根と天井の間から見えた青空・・・今も私に勇気と力を与えてくれる・・・」、そして「私達は皆、宇宙船・地球号という唯一の船の乗組員」で、その「青空」が「地球の上に、いつまでも広がっている事を願う」。
それでは・・・田中さまの抽象画的壁画アートとの関係は何でしょうか。画面に具象を描くよりも、「抽象は、作品と題名から観る者の想像力を掻き立て、込められた作者の想いを感じ想像してもらう・・・」ことで、無言で問い掛け、一層深い共感(empathy)を引き出し深めること、に在ると思います。

私はここから、田中さまの“「青空」は、皆んな誰でも見ることが出来る・・・核兵器廃絶の可能性を信じ、挫けること無く、話し合いと活動を地球上に広めることで、皆んなが創りだし手にすることが出来る「青空」なのだ!”と仰っている、と私なりに想像し、抽象的な「青空」が、心に残る判り易いkeywordとなりました。

「トラウマが有って、なかなか出来なかった被爆証言」活動を、2008年70歳にピースボート(その後数次に亘り2024年にも)で世界に初めて一歩を踏み出され、各国の諸団体・高校や大学・メディアでの講演や交流、加えて日本国内での語り部活動などは多岐に亘り、その詳細は、検索すると動画を含め枚挙にいとま有りません。中でも2023年4月米国イエール大学など5校での講演では、学生たちから「自己トラウマの克服は? 原爆惨事についての日本の学校教育の年代と学生たちの反応は? 投下国アメリカでの伝達工夫は? 世界へ共感の輪を広げるには? 核戦争回避の可能性は???」など多々真剣な質問が出され、田中さまの思慮深い対応が出席者の感動を更に呼び起こしました。

これもひとえに田中さまの「青空・・・核廃絶に依る美しい地球号への希求心」がもたらすものと、今回のご講演を聴き終わって心から感動致しました。原爆投下から現在までの80年間には、核兵器廃絶運動への切っ掛け或いは成果となる多くの事象がありますが、自らの被傷・被爆を梃子とする田中さまの絶え間なく多彩なご活動は、間違いなくその共感と牽引力になってきたでしょう。2024年の「日本原水爆被爆者団体協議会」のノーベル平和賞受賞もその成果の一つです。
田中さまのご活躍は勿論ですが、世界の歴史上或いは私達日本人の記憶に留めるべき人物や事柄を幾つかを列挙してみましょう。それぞれが核兵器原爆の惨状を世界に伝え、核兵器廃絶を意識する切っ掛けになっております。
佐々木禎子さん:被爆時2歳~12歳(1955)。「千羽鶴」を折り続けた。「原爆の子の像」(1958年完成)のモデル。同級生8名の発想発意から始まった募金運動が全国から世界へと広がり、実現した。
中村 サーロー 節子さん:被爆時13歳~在トロント。被爆時の勤労奉仕先軍司令部建屋崩壊での下敷き時に、隣の軍人から「諦めるな 光のある方へ 這ってゆくんだ!」と励まされ生き延びた。田中さまと同じく、核兵器廃絶運動を生涯に亘り展開。2017年3月には、国連で「ICAN(核兵器廃絶キャンペーン)」スピーチ。
1951年:講和条約締結―主権回復―情報公開―原爆惨状への世界認識広まる。
1953年:映画ドキュメンタリ「ひろしま」。被爆した子供たちの手記集『原爆の子〜広島の少年少女のうったえ』が原作。原爆投下を直接経験した者も少なくない広島市の中学・高校生、教職員、一般市民等約8万8500人が手弁当のエキストラとして参加し、逃げまどう被爆者の群集シーンに迫力を醸し出している。1955年に第5回ベルリン国際映画祭長編映画賞を受賞。
1954年3月1日:第五福竜丸事件。アメリカがビキニ環礁で行った水爆実験により、全乗組員23名が死の灰で被曝した。広島・長崎の原爆悲劇を世界が再認識。
1955年:「原爆乙女」。広島流川教会谷本清牧師の尽力で集めた世界からの募金で、被爆傷痕のケロイド治療の為渡米した25名の女性たちを表現する。
1959年:ロベルト・ユンク著「廃墟の光」。ヒロシマの悲劇と復興、佐々木禎子さんの千羽鶴物語などが再び世界に伝わる。
1961年:バーバラ・レイノルズ著「証言の旅」。放射能被爆者救済活動が世界で展開される。
1968年:トラテロルコ条約可決:ラテンアメリカ及びカリブ核兵器禁止条約(33カ国批准)。世界初の禁止条約。平和利用目的開発は除外。
2017年7月7日:「核兵器禁止条約」国連決議可決(賛成221:反対1:棄権1)。なお 核兵器保有欠席国:米・英・仏・中など8。核傘下共有不参加国:日・独・加・韓など。欠席日本国の席上名札横に「#wish you were here」と羽根に書かれた千羽鶴が置かれていた。
2017年10月:ノーベル平和賞:前述「ICAN活動」。中村 サーロー 節子さんがICANの代表として授賞式でスピーチ。
2024年10月:ノーベル平和賞:「日本原水爆被爆者団体協議会」
申し遅れましたが、私は田中さまとは5年違いの1933年昭和ヒトケタ東京生まれの東京育ちです。敗戦の1945年(国民学校5~6年生)頃は、ほぼ定期化したB29の爆弾・焼夷弾投下と戦闘機の低空機銃掃射あり。空襲警報発令時は庭先の地下防空壕で息を潜め、或る日の至近弾落下では、亀裂した天井から土砂が落下し、家族一同が「次は直撃か?!」と、お互いの顔を緊張と無言で見つめ合ったことを、そして近時の空爆記事に触れるにつけ、更には頭上近くのプロペラ機やヘリコプターの回転音を聞く度に、80年経った今なお、当時の記憶を鮮明に思い起こしております・・・
高度一万米の「青空」を飛ぶB29に体当たり散華する日本の戦闘機と米機からくっきり開く白い落下傘、遥か下方迄しか届かない高射砲弾の軌跡煙・・・などなど、ふっ切れないトラウマでしょうか・・・田中さまのお気持ちには遥か至れませんが。
そして3月10日の東京大空襲を体験後(一夜にして死者10万人)に、宮城県へ学童疎開しました。5月25日の更なる東京大空襲の焼夷弾攻撃での自宅及び周辺罹災後(父は中国上海駐在中で東京には母と4人の兄姉が在住だったが幸い無事)に個人疎開として単独帰京し、父の広島転勤に伴い母姉と共に6月中旬広島市へ移動し、爆心地至近の川添いにある行舎宅に暫く居住しました。然し西部陸軍司令部と海軍基地のある広島の危険を察知していた父の即断即決で、家族はなんと原爆投下4週間前の7月上旬に県北60キロの三次(みよし)町へ急遽疎開し、父は勤務先建物内(爆心地から380m/現在は広島市重要有形文化財)の一室で単身起居して居りました。
8月6日午前8時15分、父は既に2階の支店長室で机に向かって居り、ピカドンの瞬間はその閃光と共に爆風で机ごと飛ばされ、窓ガラスによる頸部裂傷と共に放射線被爆を受けるに至りました。同じくその瞬間、三次の私達は、窓外からの一瞬の閃光と遠雷の如き響きを感じていたのです。翌日辺りから満身創痍の被爆者たちが、鉄道或いはトラックなどで着の身着のまま次々と到着し、町を挙げてその救援と介護に奔走したこと・・・写真などにある記録そのものの様相であったことなどが、私の脳裏に刻まれております。
そして一週間ほどのち、危篤状態にあった父見舞いの為に急遽市内を訪れた時は、あちこちの区画に白骨や数個の頭蓋骨が散在・・・家族朝食の時間だったのです。黙祷。被爆の父の白血球は一時350( 人間ドック学会による基準では正常値 3100~8400/μL)まで下がりましたが、幸い一命を取り止めました。
広島投下のウラン原爆(長崎はプルトニューム原爆で一層強力)の威力は次の通りです。放射能被爆と火球下灼熱の10秒間・・・これが80年後の現在にも続く被爆者並びに後世代に及ぶ、残虐性は勿論、核兵器問題の文字通りの焦点なのですね。
「放射能強度約0.8グレイ(人体レントゲン検査の1万三千倍)・爆発1秒後の火球直径280米・中心温度1000万度・表面温度7000度・火球の持続時間約10秒・瞬間爆風速440米/秒」。
何故核兵器廃絶を叫ぶのか・・・「放射能は・・・じわじわと人間を殺し続けます。これが通常兵器と核兵器との違いです」。田中さまの深い人類愛とご活動の原点はまさにここに在り、「クリーンな青空」はその目標なのです。2025年1月28日、世界終末時計の残り時間が、過去最短の「1分29秒」と発表されました(最長は1991年の17分00秒)。これは、核兵器発射のボタンが、「手を伸ばせば直ぐに押せる目の前に、一層近付いた。」ということです。世界は今こそ改めてこれを自覚し、友人として話し合い、そして核兵器廃絶を決断すべき時になったと言えましょう。
「Today, every man, woman and child lives under a nuclear sword of Damocles, hanging by the slenderest of threads, capable of being cut at any moment by accident or miscalculation or by madness.」J. F. Kennedy(国連演説1961年)
なお、私はAFS留学生ではありませんが、ご縁ありオンライン講演会に参加拝聴させて頂いており、戦時体験者(父の広島被爆を含め)ということで、この感想文を拝命致しました。拙文ご容赦下さい。(吉川 清氏)
質疑応答録画
田中稔子さんの作品は今年8月広島市に開館となるPeace Culture Museumでご覧いただけます。
Peace Culture Museum
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