いつも、いまでも、私を笑顔にしてくれる海士町

カラムトル,ヤスミン(トルコ出身 アジア架け橋2019年生)

留学中、私は島根県・隠岐の島に滞在していました。隠岐は4つの島から成り、私は2番目に小さい中ノ島に滞在していました。私の暮らした海士町の人口は約2,400人、トルコの私の故郷と同じくらいです。

最初に隠岐の島に配属になると聞いたときはショックでした。アニメやドラマから想像していた日本のイメージ――スカイツリーのような大きなビル群、新幹線、人であふれかえる街道――などを夢見ていたからです。
正直に言って、最初はとても悲しくもありました。町には3階建ての私たちの高校より高いビルはなく、電車もスーパーマーケットも、信号も映画館もなく…私が期待していたものとまるで正反対だったからです!

私は寮に滞在していました。朝の点呼は7時。ルームメイトが「7時に食堂に集まらないといけないよ」と教えてくれたので、6時58分ちょうどに食堂に行きました。すると、すでにみんな揃っていて、まるで遅刻してきたかのように私を見ました。「5分前集合」という日本人のルールを学んだエピソードです。

世界で一番幸福な人間になった瞬間

島で迎えた最初の朝、私はなんてツイていないのだろうと思っていました。その日、私は島中を探検し、調べてみることにしました。山や森の美しい景色を楽しみながら、海へと向かいました。浜辺にたどり着くまで誰にも会いませんでした。まず港へ行き、海岸に沿って歩いてみました。海中にいる魚がはっきりと見えました。散歩の終わりに浜辺に着くとちょうど夕陽が沈むところで、その様子はまるで天国にいるかのようでした。日が暮れた後は、これまで見たなかで最高に美しい満天の星空。その日の終わりには、自分はツイていないどころじゃない、世界で一番幸運な人間だと実感しました。

すてきな散歩の後、寮へ戻り、食事をしに食堂へ行きました。誰もいないテーブルに着いたとき、周りにいた日本人生徒たちが集まってきて一緒のテーブルにつきました。その時は知らない者同士でしたが、彼らの思いやりを感じることができました。その日の点呼の時、寮のみんなに自己紹介をしました。みんな私の日本語に驚き、すぐに仲良くなることができました。

“ないものはない”町に暮らす

海士町のスローガンは「ないものはない」でした。実際、海士町には必要なものはすべてありました。壮大な自然、山、森、かわいい動物たち、美しい海、満天の星空、優しい人々、たくさんのイベントと色鮮やかな生活、そして心の平和を求める時に必要なものがすべてそこにはありました。

留学の期間中に起きた幾つかの難しい局面も、すぐ隣で私をいつも支えて助けてくれた多くの友達のおかげで乗り切ることができました。よく島を散策し、それが趣味のひとつになっていた私は、島の人々とよく話しました。

釣りをしている島のお母さんに出会ったある日のことです。私はその様子を見てもいいか尋ねました。「もちろんですよ」という返事があり、私たちは心のこもった温かいおしゃべりを楽しみました。帰らなければならない時間になった時、「お友だちになってくれてありがとうね」と島のお母さんは釣ったお魚を私に分けてくれました。

これは、私が島の生活から受け取ったかけがえのない思い出の中の、ほんのささやかなひとつに過ぎません。私は、多くのひとと話し、多くのものを受け取りました。私を島中の多くの人が支えてくれたように、私の存在が細やかな助けになっていればどんなに良いかと思います。日本のお菓子を作って下さったおかえしに、私はトルコ料理を作ってふるまいました。でも、皆さんの好意に対して私にできたのは、ほんの少しのお返しだけだったと思います。

海士町での美しい日々を振り返るとき、私の顔からは自然に笑みがこぼれます。落ち着いた静けさ、静謐で平和で喜びに満ちた島、海士町での日々をいつも思い出します。


追記:
ヤスミンは、2020年3月にAFSプログラムを終了し、母国・トルコに帰国。日本の大学進学を志し、2021年5月、文部科学省国費外国人留学生制度により再来日を果たし、国内の大学に通学しています。海士町からはじまったヤスミンと日本との結びつきは、今後もいっそう深まっていくことでしょう。


この記事のカテゴリー: トルコ 来日留学生の体験談

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