「Semoga sampai jumpa lagi.」また会えますように、というインドネシア語である。
私はこの5ヶ月でたくさんの人に出会った。たった数時間しか会えなかった人もいれば、メダンに着いた時からいつも一緒にいる人もいる。どんな人にも私は別れ際そう言ってきた。
会えるとは限らないけれど、また会いたいという思いを伝えるために。

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私の留学は入院生活から始まる。
3日間のオリエンテーションを終えメダンに着いたばかりの時。まだ家のことも家族のこともよく分からず戸惑ってばかり、加え家族が旅行に行き、叔母と兄の3人だった。
早朝嘔吐下痢と気を失って私は病院に運ばれた。まだ家族が苗字を覚えておらず、氏名をmidorikoと勘違いして混乱があったらしい。
お見舞いには多くの人が来てくれた。クラスメイト、ホストファミリーの親戚、他の留学生のホストファミリー、AFSボランティアの方々。
ホストブラザーは毎日夜寝ずに付き添って看病してくれた。英語もインドネシア語もまだ稚拙で自分が何の病気か分からず、不安だった。でもいつも誰かがいてくれて、励ましてくれた。インドネシア人の優しさを、ここで初体験した。
退院後もそれは変わらなかった。学校ではつねに一人にならないように皆が気を配ってくれる。何でも皆で分けあうこと、女子で手を繋ぐのや腕を組むのが日常的なこともとても新鮮に感じ嬉しかった。

私は毎週水曜日に郊外にある小さな村に行くことになった。そこは農場で、貧しい子どもたちがたくさん暮らしていた。ホストファミリーの親戚がそこで無料で勉強を教えていて私も参加できることになったのだ。
始めていった時は不安と緊張で一杯だったが、子どもたちから歩み寄って来てくれ、今では一番いて楽しい場所となっている。子どもたちは自分達の境遇を嘆かない。ただ楽しく遊び、外の世界の話を聞こうとする。
始めの頃全くしゃべれずもどかしさがつのっていたが、今では会話ができる。子どもたちと話して言語の重要性を思い知らされた。
今日日本では募金活動が盛んに行われている。しかし生の彼らの声を聞くことはない。皆将来の夢を持っていて、でも叶わないと悟っている。そんな悲しさを直に感じることは辛い。
でも私にできることがあることも分かった。子どもたちと遊ぶこと、話すことを通じて希望をあたえられる。

また私は先月ホストファミリーとホストスクールを二週間だけ交換した。そこの学校は寮と先生の家(先生はすんでいないことが多い)に一部屋2、3人で泊まるシステムで生徒の大部分が親から離れて暮らしている。
また学校は12時にいったん終わり2時に始まる。生徒は家でご飯を食べる。メダンでは学校は2時に終わるのでなかなか慣れなかった。
私は先生の家にホームステイすることになった。そこの学校は多くのビーチがあり、夜に友達皆と遊びに行ったりした。クラスは2、3日置きに交換した。友達が私の名前を考えてくれた。皆とても優しくて私は幸せでした。
最後の日に友達が「もうできないって言わないで。midorikoは必ずできるんだから。できないって決めつけないで」と言ってくれた。それは前の日あったAFSのプロモーションを準備しているときに私がいつも無理だよ~、出来ないよ、と愚痴をこぼしていたのを受けてだった。そんな私のことを思ってくれる友達の言葉に思わず泣いてしまった。
大切なことを教えてくれた友達へ。ありがとう。4月に多くの友達がメダンに帰る。そのときまでもっと成長した私を友達に見てほしい。

やっと多くの人と親しくなれてインドネシア語も分かってきた。でも私にはあと5ヵ月しか時間がない。その事に今は焦っている。
でも一日一日を大切にしていきたい。皆に与えて貰った多くを少しでも返せるように。

2015年2月 インドネシアより
AFS61期生/みちのく応援奨学金 笠原緑子

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